ひねくれ式で「苦諦」と「集諦」を観察する
仏教には「四諦」という教えがあります
苦集滅道の四つの教えなのですが
今回は「苦諦」と「集諦」のみをピックアップしていきましょう
「苦諦」この世界(物理現実)は苦しみである
「集諦」その苦しみには欲望がつきものである
あなたは、これをどう解釈しますか?
あなたは高性能パソコンが欲しいけど、お金がないから買えないとしましょう
「苦」パソコンが買えない、ですね
ではその苦の「集(欲望)」の例を二つ出します
「集①」買えないパソコンを欲しがるという欲望がある、だから苦しむ
「集②」買えないパソコンがあるという事実にそもそも欲望がある、好きで苦しむ
ひねくれものなら(じゃなくても)迷わず②を採用してください
①はちょっと選ばないでいただきたい
何故なら①の救いの道は
「じゃあパソコン欲しがらなきゃ苦しまないじゃん」
になってしまいます、そんなの娯楽を捨てて情緒的ではなくなった
ただのニヒリスト(虚無主義者)です
例えば
「美味しいものを食べようと思わなければ苦しまない、食えりゃ何だっていい」
みたいな人は、味に対する共感的応答をしなくなるので、周りから嫌がられますよね~
こういう人は①を採用して何か微妙なことになっているニヒリストタイプです
(こういう解釈の人よーくいるよね)
これがやりたいのなら是非続けて、情緒的ではなくなったニヒリストになってみて下さい
(仮に、仏教がこっちの解釈でガチで説いているんなら、自分はガッカリするね)
そうじゃなくて~
「パソコンを買えない現実」そのものに「何か欲望」があるんだってば
嫌われる勇気を思い出して~
「不幸には何か目的があって、後から原因(物理現実)をこしらえている」
そしてそれは「ひねくれ式」でいくらでも炙り出せる
炙り出せるのは「集(欲望)」です
ひねくれ式で「苦」「集」の観察をしてみよう
これがV8の「苦諦」と「集諦」の説明でした~
「滅諦」「道諦」もやってもいいけど
「道諦」の八正道の実践ってのを、ひねくれ式の実践に変えるだけでいいかな~
今回のポイント
欲望とは「苦」そのものに対してである